二つの顔
「ポテチ!」と呼ばれて振り向いた顔は、まったく違うもう一つの顔でした。ポメラニアンのポテトのことです。声をかけたのは、「空飛ぶコーギー」のマロン。二匹で声をそろえて「沙織さ~ん!」と叫んだ、背の高いカシの木の下でのことでした。
ポテトの黒い瞳は、涙で光っていました。マロンが「もう、降りよう」と静かに声をかけても、ひたすらじっと遠くを見つめ、一言も話さずにただただしゃくり上げていました。青空に居座っていた太陽も、しだいに西空へと移り、家路を急ぐムクドリの群が、木のてっぺんにとまった二匹の犬を、不思議そうにながめて行きました。「ポテチ。そろそろ降りようよ」。
この日の太陽は一段と優しく、少しでも長くポテトを照らそうとしてくれましたが、そろそろ、それも限界。申し訳なさそうに西の山にその身を沈めて行きました。誰もが知っているこの街も、ポテトのながめる隣りの街も、ポツリポツリと灯りが点り始め、東の空に夏の大三角形が明るさを増してきました。「ポテト。そろそろ降りないと…」。
ポテトが小さくうなずきました。マロンが枝から離れて飛びました。ポテトは一枝、一枝、細い足を伸ばしながら枝を伝って降りてきました。「ポテチ。暗くなったから、気をつけてね」と、マロンが木の周りを飛びながら声をかけました。「ポテト。気をつけてな」と、カシの木も低い声で言いました。「夜露に足を滑らせるなよ」と、片目をつぶったフクロウが言いました。「細い枝には足を乗せちゃあダメだよ」と、夕暮れの妖精も言いました。
この街の仲間たちは、誰もが優しく声をかけてくれました。ポテトは目をつぶっていても、カシの木から降りられるような気がしました。細い枝は、ポテトが足を乗せる前に、ポキンと折れる音で教えました。「おっと、いけない」と、ポテトは別の枝を探ります。ポテトの足が枝を探ると、カシの葉っぱがガサゴソと、枝の位置を教えてくれました。「こっちだな」。「ポテト。もう少し右だよ」と、夜風が吹き過ぎました。「さあ、今度は左足を下ろして…」と、夜目の利くコウモリが声をかけてくれました。
一枝、一枝…、足で探り、一枝、一枝…、下に向かいました。さあ、最後の枝に差し掛かりました。「ふー」と、ため息をつきました。マロンがカシの木の幹に前足をかけて立ち上がりました。「ポテチ。僕の肩に足を乗せてもいいよ」。ポテトはもう一度だけ「ふー」と、名残惜しそうにため息を吐きました。マロンはポテトのことを可愛そうに思いました。「ポテチ。まだ、泣いているのかな?」。ポテトは、木登りを始めた時のように、前足でブランとぶら下がりました。「ポテチ。さあ、いいよ」と、マロンは足に力を込めて踏ん張りました。ポテトは何回かブラリブラリと揺すっていました。「ポテチ!」。
その時、マロンは背中にドシンと堕ちたポテトの体を感じました。「ギャ!」と、マロンは叫びました。ポテトはマロンを仰向けに倒すと、短い足を持って、自分の足を絡めました。「何するの?」。ポテトはすかさずステップオーバーして「サソリ固め」の体勢に入りました。「痛い、痛い!」と、マロンが悲鳴を上げました。「マロン。まいった?」と、ポテトが聞きました。
「ポ、ポテチ!」と呼ばれて振り向いた顔は、まったく違うもう一つの顔でした。ポテトのもう一つの顔は、両方の目が釣り針のようにキラリと光り、小さな舌をヘビのように出して、ニヤリと笑いました。「ヒッヒッヒ」と、ポテトの口元が歪みました。一体、ポテトの泣き顔は、どこに行ってしまったんでしょう?「さ、さっきのポテチの顔は、どこに行ったの?」と、マロンが聞きました。すると、さっきのポテトの顔も振り返りました。さっきの顔も、涙をぬぐってニヤリと笑いました。
「マロン。まいったか?」と、さっきの顔ともう一つの顔が、そろって同じことを言いました。「ポテチの顔は、二つあるの?」。「そうさ。誰だって、顔は一つじゃあないよね。ヒッヒッヒ」と、二つの顔が声をそろえて笑いました。「そ、そうなの?顔は一つじゃあないの?痛い、痛い。まいった!まいったから、もうやめて!と、マロンは大きな声で叫びました。ポテトの顔は二つあっても、どちらも見慣れたいたずら小僧の顔に戻りました。「ガウガウ!もう、まいったって言ってるじゃん!」。
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