森の香りをお届けします

AKG(秋葉観光ガイド)の斉藤さん

2021年08月02日 04:54

 「野菜はいかがですか?」と、リヤカーを引いたおじいさんを見かけるようになったのは、数日前から。おじいさんのリヤカーには、ナスやトマト、キュウリにエダマメ、トウモロコシに大きなスイカなどがどっさり積まれています。「新鮮な野菜をお届けしまーす」。不慣れなためか、小さな声です。それに、いくら近くの森といっても、リヤカーを引いて来るのであれば、3時間はたっているはず。にもかかわらず、野菜たちはどれもこれも、朝露が残るほどに新鮮となれば、かえって疑われ、「あれは、きっと水をかけているんだわ」「朝採ってきたって、嘘に決まっているわよね」と、これは口うるさい団地のお母さんたちの噂です。

 リヤカーには、野菜のほかに、白い紙袋がいくつも積んでありました。風船みたいに丸く膨らんでいましたが、手で持ってみても振ってみても音がするわけでなく中で何か動くわけでなく、ただ軽いだけで、おじいさんに言わせれば「森の風が詰まっているんだよ」とのことでしたが、「それは、嘘よね」「あれは、空っぽよ」というのが、お母さんたちの一致した結論でした。ですから、おじいさんのリヤカーは毎回、野菜を売り残して帰っていきます。もちろん、白い紙袋もどっさり残ったまま。

 幸ちゃんは、「かわいそう」と思いました。でも、お母さんに聞いた話だと、紙袋の中には、何も入っていないとのことでしたが、幸ちゃんには「あんなに膨らんでいるんだから、きっと何かいいものが詰まっているんだわ」と、考えていました。嘘つきと言われたおじいさんの野菜は、全然売れません。夏休みに入ったばかりのその日も、麦わらぼうしをウチワにして大きなため息を一つ。肩を落として帰っていこうとしていました。

 「きっと、いいものが詰まっているはず」幸ちゃんは、思い切って後をついて行くことに決めました。街角をいくつも曲がり、信号を過ぎスーパーの前を通り、途中何度も汗を拭いて腰を伸ばして、やっと畑の見えるところで一休み。幸ちゃんも少し離れた道端で立ち止まりました。すると、おじいさんは紙袋を一つ取り上げ、ポンと両手ではさんで割りました。おじいさんが深呼吸したすぐ後、幸ちゃんのところに爽やかな涼しい風が吹き抜けました。「あれ?どうしたんだろう?」と、幸ちゃんは少し不思議に思いました。その風には、いい香りが混ざっていたのです。

 「ああ、いい匂い。葉っぱや草の匂いだわ」と、幸ちゃんは思いました。「これって、あの紙袋の中から?」幸ちゃんは、少し疑ってみました。その時おじいさんが、もう一つ紙袋を割りました。ポン。気持ちのいい音が響き、またまた涼しい風が吹きすぎました。「やっぱり、間違いなし。お母さんは、嘘つきとか言っていたけど、嘘つきじゃなくて、あのおじいさんはきっと魔法使いのおじいさんだわ」と、ほっぺたをつねってみました。

 幸ちゃんは、いつの間にかリヤカーに近づき、「ねえ、おじいさん。その袋には何が入ってるの?」と、聞いてみました。ちょっとびっくりしたようなおじいさんは、幸ちゃんに紙袋を一つ渡して「割ってごらん」と言いました。ポン。幸ちゃんが袋を乗せた両手を合わせると、紙風船が割れるように袋は割れて、小鳥のさえずりを乗せた風が、さーっと吹き抜けました。よく見ると、リヤカーに積まれた野菜たちは、朝露のような水滴に包まれています。水滴の一粒一粒が真夏の太陽の光を受けて、キラキラと虹色に輝いています。

 「君の名前はなんていうの?」と、おじいさが聞きました。「私は幸子よ。おじいさんは?」「幸ちゃんか?ワシは源助」「源助おじいさんか?」「まあ、そんなところだな」と、おじいさんは照れくさそうに笑いました。「この紙袋に森の風を詰めているのは、うちのばあさんでね。ワシらが吸っている森の空気を、街の人たちにも届けてあげたいと言い出してね。毎日紙で袋を作って、森の風を詰めているんだよ」。「おばあさんは元気なの?」「元気だよ。うちで待っているばあさんに、甘いお菓子でも買って帰ってあげたいけど、野菜が売れないからね」。「森の風は冷たいだけじゃあなくて、雲を作り、雨を降らせ、木を育て、森を育て、野菜も育て、何でも叶う魔法の風なんだよ」。「そんな風を、幸ちゃんたちにも届けてあげたいんだけど、誰も話を聞いてくれないんだ」と、おじいさんは嘆きました。「私でも役に立つことはないかしら?」と、幸ちゃんは聞いてみました。「私、手伝ってあげる。源助おじいさん、もう一度、街に戻ろう!」と、言いながらリヤカーの後ろを押しながら、無理やり向きを変えてしまいました。「おい、おい。幸ちゃん」と、困り顔のおじいさんは渋々街に引き返すことにしました。

 「森の香りをお届けしまーす」と、今度は幸ちゃんが大声で叫びました。「森の香りをお届けしまーす」と、おじいさんも少し大きな声で呼びました。団地の広場には、あっという間にお母さんたちや、子供たちがあふれました。「ああ、あの嘘つきのおじいさんだわ」「女の子の声だったので、だまされちゃった」と、口々に言いながら帰ろうとしています。「さあ、源助おじいさん。紙袋を割って」と、幸ちゃんが言いました。ポンと音を立てて、袋が一つ割れました。辺りは、森の香りに包まれ、涼しい風が吹きぬけ、野菜たちはみずみずしい水滴をつけました。帰ろうとしていたお母さんたちの足が止まりました。子供たちも驚いた表情で戻ってきました。

 「何の匂い?」「何かしたんでしょう?」と、幸ちゃんとおじいさんは問い詰められました。「違います。紙袋に詰めた森の風が広がっただけです。源助じいさんとおばあさんが、心を込めて詰めた森の風です。」と、幸ちゃんは叫びました。「そんなわけないじゃない」と、お母さんの一人が紙袋を割りました。「あっ」。さっきと同じです。「私もやってみていいかしら?」と、別のお母さんも割ってみました。「あーいい匂い。森の香りだわ」。「私も」「僕も」と、紙袋は次々と割られました。森の香りが立ち上りました。炎天下とは思えないほどに涼しくなり、広場に植えられた木々も草花も、元気を取り戻し、そこだけ空気も澄んで、二人にはみんなの笑顔がはっきりと見えました。

 「なんて新鮮なナスなの」と、一人のお母さんがリヤカーの中のナスを手に取りました。「キュウリだって新鮮よ」と、別のお母さんはキュウリを買いました。「私はスイカをいただくわ」「トウモロコシをちょうだい」と、野菜たちは飛ぶように売れていきます。「ありがとうございます。森の風はプレゼントです」と、おじいさんは大喜びです。「ありがとうございます」と、幸ちゃんも紙袋を配ります。幸ちゃんの友達もお手伝いです。幸ちゃんのお母さんも真っ赤なトマトを一袋買ってくれました。

 「売り切れだね。幸ちゃん、ありがとう。ばあさんには、アイスクリームでも買って帰るよ」と、おじいさんは、うれしそうにお礼を言いました。「アイスクリームなんてダメよ。だって融けちゃうもん」と、幸ちゃんは言いました。「大丈夫。紙袋の中に入れていくから」「うん。それなら大丈夫だね。源助おじいさん、また来てね。それから、いつか私、おばあさんを手伝って、森の風を紙袋に詰めてみたいな」。「はい、お礼は森の風でいいかな?」二人は、約束をして別れました。

 次の日、幸ちゃんは朝から紙袋を作って待っていました。何枚も何枚も作りました。「森の香りをお届けしまーす」と、おじいさんの声が聞こえました。幸ちゃんは、外に飛び出しました。あちらからもこちらからも、お母さんや子供たちがニコニコしながら出てきました。おじいさんのリヤカーには、大きな大きな紙袋とおばあさんも乗っていました。「幸ちゃん、昨日はありがとう。ばあさんが、どうしてもお礼を言いたいといったからね」と、おじいさんは話しました。「幸ちゃん、昨日はありがとう。おじいさんから話を聞いて、どうしても会ってみたかったから、無理を言って乗せてきてもらったんだよ」と、おばあさんは、顔をくしゃくしゃにして言いました。「想像していた通りに可愛い子だね。これは、お礼の森の風だよ。今朝、ようやく太陽が昇る頃に森に吹いていた特別な風だよ。幸ちゃんにあげようと、いっぱい詰めてきたからね」。

 「わーうれしい。これ全部、私のもの?私もね、紙袋をこんなに作ったの。でも、こんなに大きくはないわ」と、大喜び。「幸子、ここで袋を開けたら?」と、幸ちゃんのお母さんが言いました。「そうね。さあ、開けるわよ」と、幸ちゃんは叫びました。「みんな、いいー?イチ、二のサン」。

 風が吹きました。もくもくと雲も湧きました。雲は高く高く上っていき、気持ちのいい雨が降り始めました。雨上がりには太陽が顔を出し、美しい七色の虹も架かりました。歓声が上がって、森の香りが立ち込めました。「森の風って、すごいね」「森の香りって、命の香りだね」。みんな口々に叫びました。しおれかけていた木々がピンと背筋を伸ばしました。小鳥がさえずりました。虫やカエルたちも命の歌を合唱し始めました。「源助おじいさん、ありがとう」と、幸ちゃんはおじいさんに飛びつきました。

 「幸子、何してるの?」お母さんの声で、目が覚めました。幸ちゃんは、公園のケヤキの木にしがみついている自分に気がつきました。「あれ?源助おじいさんは?」「何言ってるの?昼寝していたかと思ったら、突然ケヤキの木にしがみついて」と、お母さん。「え?今のは全部夢だったの?」。「風は?雨は?虹は?」。

 その時「野菜はいかがですか?新鮮な野菜をお届けしまーす」と呼ぶ声が聞こえてきました。「ほら、やっぱり源助おじいさんだ」と、幸ちゃんは走り出しました。でも、止まっていたのは拡声器のついた軽トラック。よく聞くと、その声は源助おじいさんとはまったく別の人の声でした。「ねえ、お母さん、トマトを買ってね。真っ赤なトマトを売っていると思うから。できれば、朝露がいっぱいついたのをお願い」と、幸ちゃんは、少しがっかりしたような小さな声でつぶやきました。

 「それから、もしかして、もしかして白い紙袋があったら、忘れずに一つもらってね。私ね、私ね、森の香りが大好きだから」。

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